開かない扉をこじ開けようとしたときに、チャンスは訪れる ~アジア初のエアレース・パイロット室屋 義秀氏インタビュー~

AZAPAのブランドアーキタイプである “MAGICIAN=マジシャン”。マジシャンは一瞬にして奇跡を起こし、世界を驚きの渦に巻き込んでいく。本連載では、まるでマジシャンのように不可能を可能にしてきた変革者たちを訪ね、その思いを探る。

第10回は、アジア人として初めてエアレース世界選手権に参戦したパイロットの室屋 義秀氏。幼少期から空の世界に憧れ、ときには多額の借金を背負いながらもエアレースに挑戦。2017年には「レッドブル・エアレース・ワールドチャンピオンシップ」で悲願の年間チャンピオンを獲得した。その根底にあるのは、空を自由に飛ぶことへの憧れとワクワク感だ。

「機動戦士ガンダム」のコックピットに憧れた少年時代

―パイロットになりたいと思われたきっかけは。

最初は、幼い頃に見たアニメ「機動戦士ガンダム」への憧れです。当時、子どもたちの将来の夢といえば「パイロット」「野球選手」が2トップ。身近に航空関係者がいたわけでもなく、エアショーを見る機会もなかった僕にとって、アニメのヒーローものは「みんなが憧れるようなパイロットになりたい」と思う大きなきっかけになりました。とにかく空を自由に飛ぶことに憧れ、ぐっとハマり込んでいって、大人になった今も同じような活動を続けているんです。

初めて本格的に空を飛んだのは、大学で航空部に入ってから。上昇気流を利用して飛ぶグライダーに乗り、想像よりもずっと面白くて楽しい「理想の空の世界」に感動しました。ただし航空部は人数が多くて、なかなか飛行の順番が回ってきません。1年間で1人あたり50回、5時間飛ぶのがやっとでしたから、グライダーではなくエンジン付き飛行機の免許を取るため20歳で渡米しました。アルバイトで貯めた100万円を握りしめ、ロサンゼルスの空港で免許を取得。そこからは、お金をためて年に一度、春休みにアメリカで飛行機に乗る学生生活でした。

トップパイロットの技術を目の当たりにし、「自分も世界一になりたい」

―大学卒業後は、どのように過ごされたのですか。

卒業後は大学でグライダーの教官をしていましたが、エアロバティックス(曲技飛行競技)の国際大会である「ブライトリング・ワールドカップ」(1995)を見たことが大きな転機となりました。当時はただ空を飛ぶのが楽しいだけで、具体的な夢は何も描けていなかったのですが、トップパイロットの操縦技術を目の当たりにして「こんなにも自分との差があるのか」「こんなに難しいことができるのか」と。そこで初めて「競技としてのエアロバティックスで操縦技術世界一を目指す」という夢が決まったんです。

そこからは、昼はグライダーの教官、夜はアルバイトを続け、資金を貯めてはアメリカで訓練を続ける日々。現地ではランディ・ガニエという名教官と出会い、「お前は世界チャンピオンになれる!」と励ましてもらいました。初めて出場した世界選手権はブービー賞でしたが、ランディ教官のおかげで、さらに飛ぶことの楽しさにのめり込んでいったんです。

恩師の突然の訃報、ショックで夢を諦めかけた

世界選手権の後、日本に帰ってまたアルバイトに明け暮れようとしていた矢先、ランディ教官が不慮の飛行機事故で亡くなりました。「また鍛えてやるから、戻ってこい」「ああ、きっと戻ってくる」と言葉を交わしたのが最後。20代半ばの自分にとって、恩師の死は言葉では言い表せないほどのショックでした。事実をなかなか受け入れられず、しばらくは自暴自棄に。目標も失いました。

先が見えないまま2年が経った頃、今もビジネスパートナーとして一緒に仕事をしている芹田博さんと出会いました。カウンセラーのように話を聞いてくれた彼との出会いで、ようやく気力を取り戻し、「30歳までに何とかならなかったら、操縦技術世界一の夢は諦めよう」と決意。福島県に拠点を移し、自家用機のオーナーの手伝いなどをしながら再び飛行を始めました。

3000万円の借金を背負い、「マネーの虎」社長に直談判

その後もたくさんのハードルがありました。飛行やトレーニングを続けるには資金が必要ですが、いくら夢のためとはいえ、念じてもお金は降ってきません。飛行機を買うために3000万の借金を背負ったときは、いよいよ資金繰りが苦しく、高速道路でガス欠になったような状態でした。それで当時、たまたま見ていたテレビ番組「マネーの虎」に出ていた堀之内社長に直談判したところ、「夢があるなら頑張れ」と資金援助してくれたんです。

堀之内社長のおかげで2年ほど生き延びた後、今度はエアショーの仕事や、広告代理店から受けた「スカイタイピング」(複数の飛行編で、空に白煙文字を描く広告手法)のプロジェクトを受けたりして資金をつなぎました。そして2006年、レッドブル・エアレースのデモイベントの運営を任され、これをきっかけにスポンサードが決定。34歳で、ようやく本格的にエアレースに取り組む環境が整いました。

開かないドアをこじ開けようとしているときに、チャンスは訪れる

2009年からは、毎年のようにレッドブル・エアレースに参戦。2011年に拠点・福島を襲った東日本大震災も乗り越え、2017年には44歳で悲願のワールドチャンピオンタイトルに輝きました。

例えて言うなら、僕は高速道路の途中で何度もガス欠になりながら、少しずつガソリンを補給してレースを続けてきたようなものです。ランプが点灯し、完全に止まって「どうしようか」と試行錯誤していると、見かねた誰かが助けてくれる。開かないドアをこじ開けようと必死になっていると、ようやく「そこまでやるなら拾ってやるか」と救いの手が差し伸べられるんです。

もちろん、技術について真剣でなければ誰も支援してくれません。そこに関しては、誰よりも一生懸命に取り組んでいる自負がありました。レッドブルのイベントでも、本当に短い5分くらいの時間をもらって無理やり飛んだようなものでしたが、その内容を見てスポンサードが決まったんです。それまでの練習や、積み重ねたものがなければあのチャンスはつかめなかったと思います。

―室屋さんは、日本ではなじみのなかった航空スポーツの分野で資金繰りやトレーニングなど多くの苦労を乗り越えられてきたように思います。

アメリカと違って航空文化が発達していない日本では、エアレース・パイロットを目指すハードルが高いのも事実です。でも、空を飛ぶことが何よりも好きな自分にとっては、そうした苦労も含めてずっと「ハードな遊び」をしている感覚なんです。「すごく大変ですね」と言われることもありますが、精神的には大変ではありません。「苦節何十年、苦難を乗り越えて」という感覚とも違う。

たとえるなら飛行機に乗るためのゲームで、あるステージをクリアするとまた次のステージで違う怪物が出てくるように、どんどん壁をクリアしてきた感じです。何よりも飛行機を操縦することが好きなので、これからも「操縦技術世界一」を求めていきたいですね。

次世代への「恩送り」として、日本の航空文化を育てたい

―現在は、子どもたちへの教育にも力を入れているそうですね。

これまで僕は、いろんな人たちから知識やテクニックを与えられてきました。今度はその恩を次世代へ送るときです。日本は第二次世界大戦後、約7年間にわたって航空機の研究・設計・製造などが禁止されていました。その間に多くの人材が自動車業界に流れ、航空業界は致命的な遅れをとったのです。古い航空法が生きていることから、日本ではアメリカと比べて空港も少なく、航空スポーツを楽しむハードルも非常に高いのが現状です。

そんな日本で航空文化を根付かせるには、2世代、3世代の長い時間がかかるでしょう。僕たちは今、小学3年生以上を対象に「空ラボ」という未来の自分を見つける教室をやっています。まずは色々な本物に触れてみて自分の心が求める本当にやりたいことを見つけ、自ら目標を設定し、達成するプロセスを学ぶ教室です。操縦に興味のある子には、飛行訓練ができる環境も用意しています。さらに、技術者を育てるため、福島県立の学校と連携して、本物の軽量飛行機を製作するプロジェクトもスタートしました。2年後には、学生たちが作った飛行機が空を飛ぶ予定です。ひとくちに「飛行機」といっても、操縦や製造、管理など多くの選択肢があります。1つでも多くの選択肢を見せて、かつての自分のように航空業界を目指す子どもたちが増えればいいですね

広がる空のテクノロジー、将来はドローンや空飛ぶクルマも当たり前に

実は今、航空業界には大きな転機が訪れています。ジェット機の技術が限界に達する一方、「次世代航空」と呼ばれるドローンや空飛ぶクルマなど、次のイノベーションが起き始めている。新たなテクノロジーが普及すれば、空を飛ぶモノ・ヒトの量はさらに増えるでしょう。日本はいわゆるジェット化には乗り遅れましたが、新たなステージでは国際競争に勝てるかもしれません。だからこそ子どもたちに航空文化を知ってもらい、1%でも2%でも飛行機に関心をもってくれる人を増やしたい。そうすれば、日本の航空業界はもっと伸びると思うんです。

―最後に改めて、室屋さんがこれまで、困難な状況を切り拓いてきた原動力を教えてください。

やっぱり好きなことに特化し、さまざまな選択肢を探ってきたことだと思います。世の中は多様性に満ちていて、自分の得意分野を活かす道もさまざまです。僕は10代の頃、飛行機の操縦は好きだったけれど、エアロバティック・パイロットという存在は知りませんでした。旅客機やグライダーは乗ったことがあっても、エアショーや空のレースを見たことがないから、そのパイロットの存在も知らなかったんです。知らないから、選択肢にならない。

あのままだったら、レッドブル・エアレースを目指すこともなかったでしょう。でもアメリカへ行き、小型のセスナ機からアクロバット機、ビジネスジェット、エアロバティックスの世界大会など、多様な飛行機の楽しみ方を知る中で「エアレース・パイロットとして操縦技術世界一」という夢が見えてきた。多くの選択肢の中からそこにたどり着いたのは、いろいろなものを見て経験したからだと思います。

自分に何ができるのか迷うことは多いですが、世の中は多様性に満ちています。自分の得意なことを探していけば、きっと見つかるはず。AZAPAにも、技術者の皆さんが好きなこと、得意分野を活かせる環境があると思います。楽しいことを深く掘り下げていくうちに、自分の地平のようなものに行き着き、自然とイノベーションが起きる。そういうものだと僕は思っています。

 

室屋 義秀(むろや よしひで) エアレース・パイロット/エアロバティック・パイロット

1973年生まれ。18歳でグライダー飛行訓練を開始し、2009年、レッドブル・エアレース ワールドチャンピオンシップに初のアジア人パイロットとして参戦。2016年、千葉大会で初優勝。2017年にはアジア人初の年間総合優勝を果たす。

国内では航空スポーツ振興のために全国で活動中。地元福島の復興支援活動や子どもたちへの航空教育にも積極的に参画する。福島県県民栄誉賞、ふくしまスポーツアンバサダー、福島市民栄誉賞など多数受賞。

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